2010年4月より田澤耕先生主宰の「カタルーニャ・ゼミナール」を開講しました。参加者は13名、月に一度月曜日に東京・銀座で開催しました。メインテーマは、「19世紀末から20世紀初頭にかけてのカタルーニャ」です。第一回は、田澤先生よるイントロダクションに続き、各参加者が自身のカタルーニャへの関心について自己紹介をしました。第二回からは、メインテーマに沿ったかたちで、各参加者が研究や関心に基づき事前に準備をしたうえで発表、それについて田澤先生がアプローチやフォローをされるというスタイルがとられました。
田澤耕先生からの報告レポート
第一部
第2回 2010年5月10日
カタルーニャ・ゼミナールのテーマは、「カタルーニャの現代女流作家ムンサラット・ロッチとカタルーニャ民謡『アラゴンの貴婦人』について」でした。
このゼミは「世紀末から20世紀初頭にかけてのカタルーニャ」がメインテーマなのですが、それ以外でも会員の方が関心をもつテーマがあれば、柔軟に横道にそれていこうと思っています。実は、カタルーニャ・ゼミナールの説明会で私が見本としてした話をきっかけに、会員の保崎典子さんがこのテーマで話してくれることになったのです。
保崎さんは、ムンサラット・ロッチの文学について博士論文を書いていらっしゃる専門家です。日本ではあまり知られていないこのカタルーニャの女流作家について、要領よくまとめた後、その作品の中に出てくる民謡「アラゴンの貴婦人」の意味について考察してくださいました。また、マリョルカの歌姫マリア・ダル・マル・ブネットが美しい声で歌う「アラゴンの貴婦人」も聞かせていただきました。本当にきれいな歌です。
私の方は、ロッチの短編「若人の歌」を以前に翻訳したことがあったので、それを事前資料として会員の方に送付したほか、この民謡がギリシャ起源なのではないかということを書いている論文を紹介してわずかですがお手伝いしました。また、ロッチが住んでいたバルセロナのアシャンプラ地区や彼女が通った、同地区の伝説的書店ONAについても少し話しをしました。さらに、会員の内藤多寿子さんから、ご専門のカタルーニャの音楽家ムンポウとの関連で貴重なコメントをいただきました。
会員の皆さんも、未知の作家について専門家の話が聞けて喜んでおられるようでした。今後も、できるだけ一方向の話で終わらぬよう、会員の方に積極的に参加していただこうと思っています。よろしくお願いします。もちろん、来ていただけるだけで十分ありがたいです。
第3回 2010年6月14日
まず、5月に私が訪問したニューヨークのHispanic Society of America(HSA)とクロイスター美術館の話をしました。
HSAには、世界に三冊しかない「ティラン・ロ・ブラン」の初版本(1490年)のうちの一冊があります。それを見せてもらうために訪問したのです。係りの人が、以前に私が拙訳『完訳 ティラン・ロ・ブラン』(岩波書店)を寄贈したのを覚えていてくれて、すんなりと望みがかないました。五百年以上も前に印刷された本に直に触れることができて感無量でした。続いて訪れたクロイスター美術館には、フランス領北カタルーニャの修道院サン・ミケル・ダ・クシャーの中庭の半分(!)があります。十九世紀末に荒れ果てていた修道院の中庭をアメリカ人が半分買い取って持ち帰ったのです。自分たちが持っていない「中世」に対するアメリカ人のあこがれの強さを感じさせられた旅でした。
続いて本題の「米西戦争」です。ハバネラと呼ばれるカタルーニャ歌謡の名曲「アル・メウ・アビ」(僕のおじいさん)を手がかりに小林由朗さん、房子ご夫妻が、キューバ独立戦争と米西戦争について丁寧に報告してくださいました。小林さんは前からお好きだったこの曲の歌詞の中で一見、まわりから浮いたように見える「裏切り」ということばはどういう意味なのだろう、と疑問に思ったことをきっかけに米西戦争について調べることを思い立たれたのです。日常的なことから生まれた関心を深めて行くというのはとても楽しいことだとあらためて実感させていただきました。
私の方からは、米西戦争についての画像を紹介し、この戦争を「坂の上の雲」の主人公秋山真之が観戦していて、後に日露戦争の作戦を立てるときに参考にしたことなどをお話ししました。
第4回 2010年7月12日
前期最終回となった今回は、「1888年のバルセロナ万博」がテーマでした。会員の須沢文穂さんが前から関心をもって調べていらしたテーマなので、発表をお願いしました。外交官というお立場から、スペインと日本の関係に着目した大変興味深い発表をしてくださいました。万博の規模としては、前後の他の万博にくらべると見劣りするが、カタルーニャの関係者と日本の関係者との間で個人的な連携が生まれており、その意味で、その後の日西関係を語る上で重要な契機となったというご指摘が印象に残りました。僕の方からは、バルセロナ万博実現までの経緯、会場建設のエピソードなどを紹介しました。この万博は、その後のカタルーニャ・ムダルニズマの起点となる出来事であり、世紀末カタルーニャ研究では大変重要なポイントです。
終了後、前期無事終了を祝い、皆で乾杯、歓談し楽しい時間を過ごしました。皆さんありがとうございました。
第5回 2010年9月
「レウスとガウディの幼年時代」
夏休み中にガウディ生誕の地、レウスとリウドムスを訪れたのでその報告をしました。今でこそレウスは一地方都市ですが、十九世紀には「レウス、パリ、ロンドン」とやや誇張的に言われるほど栄えた町でした。そこで少年時代を過ごしたガウディのあまり知られていない側面を中心にお話ししました。具体的には、中学校の友人たちと作った手書きの雑誌に木版画やイラストを提供していた、ということなどです。レウスのあるタラゴナ平野は、気性の激しい人々が多いことでも知られています。ガウディのその後のエピソードにも、その特徴がよく現れています。また、郷土意識が強く、バルセロナでガウディの協力者となった人々の多くがこのあたりの出身者です。自然や風物、そして人、ガウディが出身地から得たものは大変大きかったと言えるでしょう。
第6回 2010年10月
「カタルーニャのインディアノ1」
18世紀後半にアメリカ貿易がカタルーニャにも解禁されると、カタルーニャからたくさんの人々がキューバに渡っていきました。とくに十九世紀中葉には、その数はスペインのほかのどの地方よりも多かったのです。彼の地で成功して戻ってきた人々のことを「インディアノ」といいます。カタルーニャ人は持ち前の勤勉さでキューバの産業の第一の担い手となります。しかし、それは同時に、奴隷貿易と深く係わることを意味していました。奴隷こそが一番利幅の大きな「商品」であり、農園経営には欠くことのできない労働力だったからです。たしかにカタルーニャ人の評判はよくありませんでしたが、それは彼らが特別に悪辣だったということでは必ずしもありません。歴史的に奴隷貿易は近代資本主義成立のための必要条件であり、資本主義の恩恵を受けている人々はすべて大なり小なり、直接的にせよ、間接的にせよそこに係わったことになるのですから。次回は、続きをお話します。
第7回 2010年11月
「カタルーニャのインディアノ2」
今回は、具体的に、アントニオ・ロペス、ジュアン・グエイという二人のアメリカーノ(インディアノ)とその子孫についてお話ししました。アントニオ・ロペスは、ガリシアの出身ですが、キューバに渡り、そこでカタルーニャ出身の商人の娘と婚約し、その家族の帰国に際し、一緒にバルセロナに戻って来ました。キューバと本国間の郵便事業や、海運事業を一手に掌握し、巨万の富を築きました。ロペスは奴隷貿易に深く関わっていたことなど、黒い噂も少なからずある人物です。
ジュアン・グエイはカタルーニャ出身です。キューバに渡り、苦労の末成功し、故郷に錦を飾りました。帰国後は、繊維工業などでさらに成功し、財界、政界の大物となります。その息子がアントニ・ガウディのパトロンとなるアウゼビ・グエイです。ロペスの次男のクラウディオは次男が夭折したので家督を継ぎますが、子供に恵まれませんでした。ロペスの娘の一人が、アウゼビ・グエイのもとに嫁いだため、この二家族の間には縁戚関係ができました。クラウディオに跡継ぎがなかったため、ロペス家の財産はグエイ家に引き継がれることとなりました。このようにアメリカーノたちはお互いに婚姻によって結びつきを深めて行き、やがてカタルーニャ社会を少数のブルジョアジー家族が牛耳るようになりました。
第8回 2010年12月
「ラナシェンサからムダルニズマへ」
1830年代に始まった「ラナシェンサ」。長年、公式の場から締め出されていたカタルーニャ語、カタルーニャ文化の再興がその目的だった。アリバウがカタルーニャ語で書いた詩「祖国」に始まり、中世の詩の競技会「花の宴」の再興などを経て、カタルーニャ語は徐々に文章語としてのステータスを取り戻して行く。カタルーニャ経済の成長に伴い、やがて運動は政治的カタルーニャ主義の色彩を帯びてくる。「ムダルニズマ」(近代主義)の誕生である。その開始時期は1888年のバルセロナ万博と重なる。懐古的だったラナシェンサと違い、ムダルニズマは現代、未来を見据えたものだった。建築、彫刻、工芸、絵画などいろいろな分野がある。中でもバルセロナに誕生した「四匹の猫」の存在は重要であった。その設立メンバー四人のうち、今回はペラ・ルメウ、ミケル・ウトリリョについて話をした。次回はその続き。
第9回 2011年2月
「ムダルニスマ サンティアゴ・ルシニョルとラモン・カザス」
前回に続いて、ムダルニズマの拠点であった、バルセロナのカフェ「四匹の猫」についてお話ししました。
今回は、その中心人物であったサンティアゴ・ルシニョルとその盟友ラモン・カザスがテーマです。ルシニョルは裕福な商人の長男に生まれながら、画家を志した変り種でした。非常に才能豊かな人物で、画業はもちろん、小説、劇作でも成功し、一種の文化プロデューサーとして活躍しました。エル・グレコの再発見者としての功績も見逃すことはできません。ただ、あまりに器用であったことが仇となって、彼が一番望んでいた画家の道では親友のカザスに一歩譲ることとなりました。カザスも、金持ちの「インディアノ」の息子で経済的には非常に恵まれていました。ただ、ルシニョルと違って、絵を描くことしかできず、その職人的な性格が、彼を画家として大成させることになったのでした。彼がとくに得意としたのは肖像デッサンで、バルセロナの著名人のほとんどがそのモデルになっています。ただ一人の例外は、彼らとは宗教観、道徳観を異にしていたアントニ・ガウディでした。また、バルセロナを訪れた著名人もカザスに多数描かれました。その中には、日本初の女優として名高い川上貞奴も含まれています。ルシニョルとカザスの二人は、いつも一緒で、亡くなった時期もほとんど同じでした。
第10回 2011年5月
「バルセロナとピカソ1」
五月、震災を挟んで、久しぶりのゼミでした。
最初のテーマとする予定であった「バルセロナとピカソ」が結局、最後のテーマになってしまいました。我ながら、計画性の乏しさに呆れる思いです。言い訳染みますが、十九世紀末のバルセロナのことについていろいろお話しして来たので、かえって、バルセロナ時代のピカソのことがよくわかるかもしれません。
今回は、バルセロナ到着後、規定の年齢前でリョッジャ美術学校入学したこと、「科学と慈悲」の受賞をきっかけにマドリードのサン・フェルナンド美術学校に「留学」したこと、しかしそこでの挫折してしまったこと、そしてバルセロナに戻ったあと、リョッジャで知り合った親友バリャレスの誘いでサン・ジュアン・デブラ村で一時期過ごし、精神的、肉体的に回復したこと、などを写真、映像を含めながら説明しました。この時期はいわば、ピカソのバルセロナ時代の「前期」と言えるのではないかと思います。この後、「四匹の猫」に出入りするようになり、カザスやルシニョルの持ち帰ったヨーロッパの新しい美術の潮流に触れることになるのです。最終回は、パリとバルセロナの往復、ジャポニズムとの関係、ピカソのカタルーニャ性などについてお話ししたいと思います。
第11回 2011年5月: 第一部最終回
「バルセロナとピカソ2」
カタルーニャ・ゼミの最終回は、ピカソがバルセロナとパリを行き来し始めて以降、パリに定住するまでのことをまずお話ししました。そのころはバルセロナのムダルニズマも盛時の勢いを失っていました。「四匹の猫」もひっそりと閉店してしまいました。もはやバルセロナにピカソを引き止めるものは何もなかったのです。ただ、ピカソが尊敬して止まなかった画家ヌネイとの親交は非常に重要でした。
続いて、ピカソが「カタルーニャの画家」であるかどうか。つまりピカソのカタルーニャ性について考えました。ピカソが少年時代にカタルーニャ化を図った痕跡があること、カタルーニャ語を話したこと、などを写真や文書をまじえて見て行きました。結論としては、ピカソに「国」という凡俗な枠をはめようとすること自体がおかしい、ということだと思います。しかし、カタルーニャ色は強いですよ。
第2部
第1回 2011年9月
カタルーニャ・ゼミ第二期が始まりました。第一期と異なり、今期は、参加者の皆さんの発表を中心にやっていくことになっています。ゼミの発表というと堅苦しい感じがしますが、とくにアカデミックである必要はありません。発表者に自分が関心をもっているカタルーニャにまつわるテーマについて知っていること、考えていることをお話ししてもらい、それをネタに皆でおしゃべりしようということです。食べ物、習慣、小説、映画・・・なんでもかまわないのです。
トップバッターとなった保崎さんは、カタルーニャの女流作家ムンサラット・ロッチの小説を「バルセロナという都市」から見直した発表をしてくれました。中身の濃い、かなりアカデミックなものだったのですが、保崎さんが実際にバルセロナに出向いて撮ってきた写真を多数まじえてわかりやすく話してくれましたので、参加者一堂、興味津々でした。とくにアシャンプラ地区の「中庭」に皆さんの関心が集中し、ゼミの後でもそれに関するメールが飛び交っているようです。このゼミの展開の一つの理想形のような気がします。
次回以降も楽しみです。
第2回 2011年10月
今回のゼミは、小林さん、小川さんの発表でした。小林さんには、『現代カタルーニャ語の父』ポンペウ・ファブラについて中身の濃い 発表をしていただきました。発表は、ファブラの辞書や文法書の内容や、カタルー ニャ語近代化の牙城となった『カタルーニャ学術院』の設立経緯にとどまらず、当時 の時代模様にいたるまでカバーする大変行き届いたものでした。持ち時間が40分程度と短かったのがお気の毒でした。それにしてもこのような硬い、どちらかというと地味なテーマに関心を持つ会員がいらっしゃるのは心強いかぎりです。
小川さんは、近現代バルセロナの売春の歴史について話してくれました。言うまでもなく、バルセロナやカタルーニャをより深く知ろうと思えば、その暗部にも関心を向 けねばなりません。小説を読むにも、そのような知識は往々にして必要となります。 表舞台の歴史はたくさん書かれているのですが、この種のテーマについては資料も集めにくいものです。その困難を乗り越えて興味深い発表になりました。現代にふさわ しくインターネットで収集した画像を交え、聞く側の興味を逸らさない工夫があったのもよかったです。
お二人ともご苦労様でした。ありがとうございました。
第3回 2011年11月
今回のゼミは音楽特集でした。お話を聞き、CDを聴くという贅沢な時間を過ごすことができました。クラシック音楽は私の弱点の一つですので、とても勉強になりました。
一人目の発表者は萩倉さん。萩倉さんは世界三大テナーの一人、カタルーニャ人ジュゼップ・カレラスの大ファンです。
まず、ジュゼップ・カレラスの数奇な人生を説明してくださいました。癌で母を失い、自らも白血病に打ち勝ってカムバックを果たしたジュゼップ・カレラスを身近に感じることができました。萩倉さんはオペラにも大変詳しく、行き届いた曲目紹介がCD鑑賞を一段と楽しいものにしてくれました。また、自作のカレラスの肖像画、秘蔵のカレラス直筆の手紙も見せてくださりました。
二人目の発表者は内藤さんでした。内藤さんは東京芸術大学で、カタルーニャのピアニスト、作曲家のフェダリック・ムンポウの研究をなさっています。豊富な音楽知識を背景としたお話しは大変興味深いものでした。ムンポウが和音を重視した作曲家であったということを、素人の私にもわかるようにやさしく話してくださいました。19世紀末に出た音楽家でありながら、聴かせていただいた作品が大変現代的であるというのが聞いているみなさんの共通の感想であったように思いました。それにしてもオペラ歌手(ほかにもムンサラット・カバリェーやビクトリア・ダルス・アンジェルスなどがいる)といい、音楽家(ほかにもアンリック・グラナドス、イサアク・アルベニス、などがいる)といい、カタルーニャからは実に多くの芸術家が出ているということを再確認しました。
萩倉さん、内藤さん、ありがとうございました。
第4回 2012年1月
1月のゼミではまず小林房子さんが、カタルーニャの現代文学について話してくれました。最初に日刊紙AVUIの特集記事を題材に現代文学を概観したあと、お好きな作家だというMaria Barbalの「荒野の石」を採り上げました。バルバルはオーソドックスなスタイルの小説を書く、現代カタルーニャ文学を代表する女流作家のひとりです。出身地であるパリャース・ジュサー地方の方言を多用した文章は決して楽に読めるものではないのですが、よく読み込んでいらっしゃる様子がうかがわれました。小説のみならず、それを戯曲化したものにも視野を広げてくださり、とても興味深いお話でした。
二人目は栗山さんでした。栗山さんは地理学を修められており、その観点からカタルーニャ、とくにカタルーニャ・ワインについて語られました。この地理学という視点は、これまでのゼミにはなかったものなので、とても興味深く拝聴しました。単にワインの種別や特徴を語るのではなく、その産地の地理的な説明があったことが新鮮でした。さらに驚いたことには、カタルーニャの有名ワイン・メーカーであるトラスの赤、白ワインをご持参いただき、試飲させてくださったのです!とても和やかな雰囲気の、良い会でした。
残すところあと一回となりました。皆さん、よろしくお願いします。