●カタルーニャ形成の来歴 | |
紀元前 1,000年 | ケルト族の到来 |
紀元前 6・5 ・4 世紀 | ギリシャ植民地( 紀元前 600年) の影響によるイベリア文化の隆盛。そしてフェニキア人とカルタゴ人の到来 |
紀元前 2・1世紀 | ローマ人による征服 |
紀元前 1世紀末~ 紀元 3世紀 | タラーコ( 現在のタラゴーナ) の中央部でのローマ化 |
紀元 5~7 世紀 | 西ゴート王国の建設 |
紀元 8世紀 | イスラム( 回教徒) による支配 |
紀元 8世紀末~ 10世紀 | ・カタルーニャのフランク王国による征服 : 独立キリスト教国の建設 ・フランク族の支配 : カルロマグノとその子孫の帝国の建設。カタルーニャ人の個性の始まりに決定的な影響を及ぼす |
紀元 988年 | フランク王国からのカタルーニャ領土の独立。フランク王国と分離したカタルーニャの明確な領土の誕生 |
紀元 11世紀 | ジローナ、オソーナ、バルセローナの領土の統合。カタルーニャの領土の残りは独立を保持。バルセローナの覇権がラモン・ベレンゲール4世伯爵の統治から離れる。 |
1018年 | 領地を放棄した後、リポーュ修道院に退去したオリヴァ神父、カタルーニャにとって重要な作品を著す “文化の保持と平和の守護” 。 |
1137年 | バルセローナ伯・ラモン・ベレンゲール4世とアラゴン王ラミーロ・エル・モンヘの娘ペロネーリャの結婚により、カタルーニャ・アラゴン連合王国成立。 |
●固有の領土の形成から独自の政府の喪失まで (13世紀~1714年 ) | |
1228年 ~ 1266年 | ハイメ1世の征服。彼の功績は領土の拡大とその範囲の固定を企てる大カタルーニャの形成であった |
12世紀~ 14世紀 | これらの世紀を通じて統治していたカタルーニャ王の生活上の重要な業績の証左として、カタルーニャの歴史がカタルーニャ語で著された。 |
13世紀~ 14世紀 | 地中海世界でカタルーニャ人の通商が光彩を放つ。その結果として、カタルーニャの船乗りのために多大な有益性を提供する書物となっている通商法の編集「海事の自由」”Llibre del Consolat de Mar”が編纂される。 |
1276年 | ハイメ1世死去。 最初カタルーニャやヴァレンシアやアラゴンに敗退し、次いでバレァーレス、ロセリョン、セルダーニャ、モンペリェールに負けた、王子ペドロとハイメの間で領地を分け合った。この分割は彼の業績を弱め、悲しい闘いのもととなる。 |
1282年~ 1410年 | 地中海の発展 |
1282年 ~ 1302年 | セシリアとの戦いでセシリア人たちが最終的勝利を飾る |
1323年 ~ 1324年 | ジェノヴァとの戦いを誘発したセルダーニャの征服 |
1364年~ 1365年 | バルセロナ議会ジェネラリタットの本拠を、国の代表機関として、市に置く。この代表機関はヨーロッパのこうした形態のものでは初めての政治機関であった。 |
1410年 | ペドロ3世によって実現された前政治によって、マルティン王が統治するセシリアのカタルーニャ王家に合体する |
1412年 | 王位を継承しないマルティン王の死に続き、新国王を決める様々な王権をもった代表者がカスペの町に集まる。 フェルナンドに王位の継承をするというカスペの盟約が成立。トラスタマラーのカスティリャ王家が入り込むことになる。 |
1420年 | サルデーニャの完全な講和を手に入れたアルフォンソ王の統治下で、ジェノヴァとの戦いが終結。 |
1435年~ 1443年 | アルフォンソ4世によるナポリ王国の征服 |
1462年~ 1472年 | ファン2世に対するジェネラリタットの戦い: 外国の王家に対するカタルーニャの戦いでバルセロナ市の王による征服で終結した。この戦争はカタルーニャ経済を相当衰退させる。 |
1479年 | カタルーニャ・アラゴンの王位継承者であるフェルナンド2世と、カスティーリャ王国の継承者であるイサベル1世王女の結婚により、カスティーリャとアラゴンの統一( スペインの国家統一実現) 。 |
1469年 | カトリック両王と呼ばれた二人の結婚はカスティーリャの絶対的優勢でもって、二つの王位の統合を予想させなかった。つづいて、独立することになる。 |
1516年~ 1700年 | アストリア王国の王家のもとで、カタルーニャはカトリック王の孫にあたるカルロス1世(1526-1556) の統治が始まる。つづいて、フェリーぺ2世(-1598) 、フェリーペ3世(-1621) 、フェリーペ4世(-1665) 、そしてカルロス2世(-1700) の統治となる: 盗賊横行やアフリカ北部の都市ベルベリヤ人の攻撃、自由と特権( 専制主義から派生した) に対する中央権力の脅威、それにフランスとの交戦の時代となる( 社会情勢が招いた)。 |
1640年~ 1659年 | 分割戦争 :フランスとの戦争により、高い国庫免除と公爵領のカスティーリャ軍隊の存在という、オリヴァーレス伯公爵の中央集権政治が “血の聖体日” (1640)のカタルーニャの反動を招いた。 それにつづいて、分割戦争あるいは”カタルーニャ農民戦争” が続く。 カタルーニャは、スペインとフランスの間でのピレネーの条約により講和。領土( ロセリョンとセルデーニャの一部)の重要な喪失を余儀無くされる。 |
1705年~ 1714年 | ブルボン家の代表としてのフェリーペ5世とオーストリアのカルロス大公(ハプスブルグ家)との間でのスペイン王位継承戦争。カタルーニャはオーストリアの味方に立つ。ブルボン家の勝利に終わる。そして、その勝利はカスティーリャの集中専制国家の考えに勝ったことになる今日のカタルーニャの人たちは、この事件に対して、カタルーニャの回復としてとらえ、毎年 9月11日を”DIADA”( “カタルーニャの祝日”)として祝っている。 |
●経済復興と中流有産階級の台頭 (1714~1888) | |
1714年 | ブルボン家のカタルーニャ権能が上向いて以来、政治の自治体制が不足を来す( 新しい計画の政令は共有土地資産制度のとりつぶしを認可し、法規として定める。しかし、スペイン領アメリカとの通商へのカタルーニャ人たちの接近により刺激されて、経済水準が衝撃を受ける(1778) ) |
1808年~ 1814年 | フランス軍の戦争 :フランス陸軍が侵略するという真の意図を持って、連合国としてイベリア半島に入る。ナポレオンはさまざまなヨーロッパの軍隊をうち破るが、フランス人たちは最後の支配地であるカタルーニャを放棄する。 |
1833年 | スペインの旧政治体制が崩れる。そして、それを乗り越えて、カタルーニャの指導者たちは自由主義の流れに乗る。 |
1830年~ 1860年 | カタルーニャの綿布産業で代表される産業化の整理統合を迎える。カタルーニャ人たちは一般に普及している “インディアナス” という名の綿布の商標をもつアメリカとの通商事件に向かう。産業の進歩的な成長が大きくなるごとに労働者への重要性を増す。そして、労働界において相次ぐ緊張と紛争の源をつくる。 |
1873年 | 2月21日、共和制の公布。最初の二人の代表者は、フィゲーレスとピ・イ・マラガーユである。 |
1874年 | アルフォンソ7世による、ブルボン王朝の復活。 |
1879年 | 分裂した共和連邦制度から分派した流れのメンバーであるヴァレンティー・アルミラーユが政治のカタルーニャ主義の進展の始まりをなす。彼は、” ディアリ・カタラー” というカタルーニャ語版の最初の新聞を創る。 |
1880年 | アルミラーユが第1回のカタルーニャ議会を招集する。彼は、1年後に、” カタルーニャ・センター” の創設を通して大勢のグループを結集させようとした。 |
1885年 | カタルーニャの政治経済の利益を守るというアルフォンソ12世に対して “グレウジャスの記録” の編集と提案を行う。 |
1887年 | “カタルーニャ・センター” が分裂。アルミラーユによって主宰された時代の終わりと考えられている、カタルーニャ党( “Lliga de Catalunya”) を政治的に保守主義者が多い地区のために創設。 |
1888年 | バルセロナ万国博覧会開催。その会場として旧シウダデーラ (リベーラ公園) で行われる。 |
●政治的ナショナリズムと社会紛争(1888 ~1931) | |
1889年 | カタルーニャ市民右派を擁護する勝ち誇ったキャンペーンの展開。 |
1891年 | ” カタルーニャ・ユニオン” の誕生。初めての議会で、カタルーニャの自治制度のための基盤が生まれる。 |
1900年~ 1936年 | カタルーニャの政治が二大勢力によって支配されることになる。即ち、カタルーニャ主義派と労働運動派である。 |
1901年 | カタルーニャ・ナショナリズムの政治形態として、ブルジョア政党の “地方主義同盟” が誕生。 |
1907年 | 殆どすべてのカタルーニャ人グループが同盟している “カタルーニャ労働者連帯” 運動 が始まる。 |
1909年 | 7 月の最後の週に、” 悲劇の1週間”と呼ぶ騒乱が起きる。それは労働者による右派政治に対するもので急進的な労働組合主義に誘導されたものであった。また” 党” (“Lliga”) に反対するレルース(Lerroux) によって煽動された共和主義のカタルーニャ人路線に静かにそそがれたものであった。 |
1914年 | 共通の関心事を扱う、地方を超えた組織のカタルーニャ自治団体連合(LA MANCOMUNIDAD DE CATALUNYA)が回復。 そしてプラト・デ・ラ・リーヴァ(Prat de la Liva) の 統括のもとで、必要な地下基礎工事におけるように、大きな功績を、文化の側面においてもなし遂げる。 |
1917年~ 1923年 | バルセロナにおいて、労働者の革命的な戦いがつづいて発生。 |
1923年~ 1930年 | プリモ・デ・リヴェーラ(Primo de Rivera) の独裁政治。彼はアナーキストの労働組合運動と政治的カタルーニャ 主義を迫害する。ついには、1925年、カタルーニャ連合 (LA MANCOMUNIDAD DE CATALUNYA)は解散。 |
1930年 | 二つの勢力が再び現れて、君主政体の倒壊に協力する。 |
●共和体制のジェネラリタット(1931 ~1936) | |
1932年 | カタルーニャ共和党左派( “Esquerra Republicana de Catalunya”) という政治グループを通して、カタルーニャは第2共和制によって、自治の許可を獲得する。 |
1932年~ 1934年 | カタルーニャ共和党左派は、ジェネラリタットという政治を指導する。 |
1934年 | 10月の騒乱が起きる。その目的は、連邦共和制の回復あり、自治政体をペンディングさせようとするものであった。 |
1936年 | ジェネラリタットの政治は、人民戦線の勝利で再建される。 |
●市民戦争とその結果 (1936~1975) | |
1936年~ 1939年 | スペイン市民戦争: フランコ総統によって指導された極右派グループの間で、共和制の信奉者に対して行われた戦い。自治政体を新しく撤廃するというフランコの軍隊の勝利に帰する。 |
1939年~ 1975年 | 全スペインで民主右派を無くしてしまい、総裁としての絶対的な権力に国を服従させようとするフランコの独裁政治は、ついに、カタルーニャの規定された政治や文化の要素の全てを迫害し、破壊するものであった。 |
●ジェネラリタットの再興と現状 | |
1975年 | フランコ総統の死。独裁の終焉。 |
1977年 | 暫定的にジェネラリタットを再建する初の総選挙。ジョセップ・タラデーラス自治政府首班に決まる。 |
1979年 | 自治州の国民投票によって承認される。これにより、自治体制が始まる。 |
1989年 | カタルーニャ議会で総選挙。 ジェネラリタットの政治をCiU (“Convergencio i Unio”カタルーニャ民主同盟) の指導者、ジョルディ・プジョールに渡す。 |
1984年~ 1988年 | ジョルディ・プジョールがジェネラリタットの首班に再選。同盟の CiUが議会において大多数を獲得。 |
1986年 | バルセロナが1992年のオリンピック大会の開催地として選ばれる。 |
※資料準拠:-”Resum d’Historia deb Paisos Catalans” Autor : Ferran Soldevilla Editorial Barcino - “Atlas de Catalunya Geografic Economic Historic” Departamento d’Edicion de Diafora,S.A. |